「昔の自分の文章を読んでいると、なんというか、なんて賢かったんだろう自分は、と思うことがある。まるで自分ではないみたいだ。」
2009年9月ごろ、私はこう呟いていた。
「相手への思いやりがために、自分の志を忘れるな」というタイトルの文章をそれ以前に私は書き留めている。2004年12月9日。婚姻届を出して3日後のことである。内容はこうだ:
最近、他人を思いやる、という回路が働くようになったのだが、これが実に厄介だと感じている。一番厄介なのが、何が正しいのかよく分からなくなるのだ。
思いやる、ということは、相手に感情移入する面がある。と、相手にとって都合のいいこと悪いことを考えてしまう。すると、自分が今まで考えてきた正しいこと正しくないこと、というのをすっかり忘れてしまう可能性がある。凡人の僕ならなおさらである。
TPOに応じて(人格を使い分けろ)なんてことを要求する奴がいるが、そんなことを考え出したら、もう、人の何がうらやましかったのか、人生で何を達成したかったのか、なんていうことを忘れてしまう。そういう奴に限って、人生の目標は金を稼ぐことだったりするのだ。
こういう奴は自分がどんな人間として過ごそうが関係ないのだから、もしあなたが彼等の部下で、良い社員になろうとこのようなことを心がけようと思っているなら、即刻やめるべきだ。いいように使われて、結局自分がやりたかったことが少しもできないことになるかもしれない。
この文章を書いている現在、この文章を書いた背景は思い出せる。結婚できたのはつまり、他人を思いやるという回路が働くようになったからだ。結婚するということは、少なくとも別の1つの存在を内包するということだからだ。
思いやりと志は必ずしも相反するものではない。しかし優先順位がなければならない。私は志を大事にしたい。
ただ、志はベクトルである。たくさんのベクトルが一緒の方向になればすごくなるが、それらを揃えるのは「非常に」難しい。最初からそのために集まったならできる可能性がある、ぐらいだろうと思う。だから多くの人の志は、結婚したときに維持できなくなることも多い。
この不安を抱えながら、私はこの文章を書いていたんだろうと思う。
実際はそういうことはなかった。違うところから、志の崩壊は生まれた。
一つは2009年9月ごろ、呟いていたこと。もう一つは、私の価値観そのものが古くなってしまったことだ。
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